公認会計士・税理士 根本 守 のブログ

私は、所属する協働公認会計士共同事務所において、日本の数多くの「非営利・協同」組織の経営や会計に関する支援業務を行ってきました。「非営利・協同」組織を今後も応援しさらに大きく広がってほしいと願う立場で、このブログにおいて「非営利・協同」の様々なことを述べたいと思います。なお、過去に事務所のホームページ等に掲載した文章も、現在でも有効と思われるものは(例えその後に法令等が改定されているものであっても)そのまま転載しています。(2019年8月)

非営利・協同組織の経営管理 -その1-

 私が所属する協働公認会計士共同事務所は、非営利・協同組織の事業体への関与が主たる業務であるが、そこでは単に決算書作成や会計、税務の支援にとどまらず、経営や財政全般に対する支援、助言を行うことを重要な役割としてきた。我々がそうした業務を行ってきたのは、非営利・協同組織においても、特に事業活動を行う法人においては、その経営を管理することが求められるからである。
  一般に、経営管理に関する所説はアメリカにおいて営利大企業を対象として研究され、その営利的な企業活動に対する様々な実務書が公表されているが、非営利・協同組織の経営管理には、その存在意義に照らし、営利大企業に対するものとは大きく異なる特徴点がある。
 ここでは、われわれの主たる関与先の非営利・協同組織である全日本民主医療機関連合会(略称 民医連)に加盟する法人を対象に経営管理上の特徴点、長所と短所、今後の課題等につき、私の業務経験に基づき述べることとしたい。


1、非営利・協同組織での経営管理への誤解

(1)非営利・協同組織では管理は不要? 

 前述の通り経営管理をめぐる研究が主として営利大企業を対象として行われてきたことがあり、非営利・協同組織と経営管理という議論は過去にはあまり聞かれなかった。(わずかにアメリカの経営学者であるドラッカーアメリカの非営利組織を対象として「非営利組織の経営」を出版している。)また、非営利・協同組織の場合、事業活動というより主として社会的な意義を持つ運動や諸活動から始まっている事例が多く見られることから、そもそも非営利・協同組織における経営管理など不要、といった誤解があったように思われる。非営利・協同組織では構成員の自主性、各人の自覚で進めていけばよいのだ、という訳である。
 しかし、以下のような点から、非営利・協同組織においても適切な経営管理が求められ、営利大企業に対するものとは異なる経営管理の理論が必要となっていると考える。

①     日本においても非営利・協同組織で職員規模が数千人以上のものが現に現れており、構成員の自主性だけに頼った経営では限界がある。
②     事業活動についても収益規模で数百、数千億円の組織が生じており、それを継続発展させる為には各人の自覚だけでは不十分で、適切な経営管理が求められる。
③     1983年に民医連に加盟する山梨勤労者医療協会の倒産事件が発生した。その他消費生協でもこの間いくつかの倒産があったが、非営利・協同組織であっても不適切で安易な運営をしていれば実際に倒産することがありうる。
④ 日本において非営利・協同組織が拠って立つ法人形態は多岐にわたるが、いずれの法人形態であってもその根拠法規に基づく諸規定の整備、総会等各種機関の設置、適切な経営内容の開示等の経営管理制度による運営が求められている。非営利・協同組織は少なくともこうした法制を踏まえて活動し、また、こうした制度を非営利・協同組織として望まれる方向に活用していくことが求められている。

(2)非営利・協同組織では利益は不要?

 よくある誤解の代表的なものが、「非営利・協同組織は利益を出すことが目的ではないのだから、利益は不要である。収支トントンが一番良いし、赤字でも仕方がない」という
意見である。
 確かに、営利企業とは異なり、配当や株価の上昇を望む株主が存在しない非営利・協同組織は、利益の追求、最大化を目的として活動するわけではない。無差別平等の医療といった社会的な意義ある活動の追求を第一目的とする。しかし、だからといって利益は不要で、赤字でも仕方がないということにはならない。社会的な意義ある活動を追求し、発展させていくためには、その支えとしての必要な利益確保が求められるからである。実際に赤字状態を放置すれば、例え非営利・協同組織であっても倒産し、地域に多大の迷惑をかけ、職員を路頭に迷わせる事態は起こりうる。
 山梨勤労者医療協会の倒産事件で見られたように、一部の経営幹部の専制的支配のもとで多額の赤字を発生させ、しかもそれを隠蔽するような事態を招いた場合には、非営利・協同組織の損害だけにとどまらず、それを支えてきた職員、地域住民に損害を与え、ひいては非営利・協同組織に対する信頼に大きな傷を残すことになる。
 また、非営利・協同組織に一生を捧げ、献身的に働いてきた職員に対し、その生活を支える給与を保証することは組織としての基本的任務であるが、経営が赤字のために給与、賞与の遅配、減額等起こすようでは非営利・協同組織の「名折れ」となる。


2,非営利・協同組織での経営危機と経営再建の教訓ー九州沖縄地域K会の経験ー

 前述の通り、1983年の山梨勤医協の倒産事件は非営利・協同組織での経営管理の重要性をあらためて認識すべき事態であったが、その詳細は既出版の「いのちの平等をかかげて(山梨勤医協50年のあゆみ)」や「無差別・平等の医療を目指して(全日本民医連)」等で語られており、また、倒産時点で私個人は直接かかわってはいないので、ここでは、その9年後の1992年に発生した九州沖縄地域にあるK会の実質倒産事件につき経営危機に至る経過とその再建の歩み、教訓につき語りたい。K会の事件も山梨とほぼ同様の問題を抱えていた。

(1)    K会での経営危機

 山梨勤医協倒産事件の2年後である1985年に、山梨と同様に公益法人である九州沖縄地域のK会が手形不渡り事件を起こした。当時はどこの法人も材料代などについて支払手形で支払っていたが、不渡りとはその手形が現金化されるときに、K会の口座に資金がなかったということである。手形の不渡りは、法的には2回連続して起こると銀行取引停止になり倒産に至る。K会の場合は何とか地域から協力債を集め2回目の不渡りを回避したが、この時点でK会の経営はすでに危機にあった。原因は無理な病院建設である。建設前のK会の収益規模は54億円程度にもかかわらずセンター病院であるO病院を120億円以上をつぎ込んで建設し(1984年竣工)それを支える医師体制も脆弱であった。しかも、落下傘型の建設で共同組織や地域の方々の病院を建設してほしいという運動があったわけではなかった。さらに経営悪化を理由として突然の労働条件引き下げを図ったことを契機に労働組合の分裂という事態も引き起こしていた。
  銀行融資を受けることが難しいため、建設会社やリース会社からの借入等も行って当面の資金危機を回避できたものの、借入に協力した金融機関から役員を受け入れ、民主的運営とは程遠い一部役員による不明瞭で非民主的運営が定着することになった。一部役員が出資した会社を通じた乗馬クラブの運営等やそこを通じた不明朗な入出金、経営の赤字を糊塗する粉飾決算等はこの時期から深刻化していった。しかし、こうした状態を長く続けることができないのは自明である。640床の許可病床を持つO病院の稼働は400床台にとどまり、垂れ流しつづける赤字を粉飾決算でごまかす対応をさらに継続することは困難になった。
  1991年に入り、K会内部での一部役員に対する疑念、不信感の高まり、また、85年以降医師支援や助言を行ってきた全日本民医連からの提案を受けて、一部役員の抵抗を打破した形でのK会評議員会(財団法人であるK会の評議機関)の決議により、全日本民医連の顧問公認会計士である我々による調査が行われることととなった。
 1992年8月に調査報告書が公表されたが、調査によってわかったことは、K会が実質倒産状態だということ、また、粉飾決算をはじめでたらめな経営管理を行ってきたということである。K会の総負債は245億円に上り、資産総額113億円との差額である債務超過額は132億円にのぼった(1992年3月末時点)。K会が調査以前に公表していた91/3月末の決算書上の債務超過額は47億円であるから、91年4月から1年間の損失14億円を差し引いても70億円以上の赤字が隠されていたことになる。この数値は山梨勤医協の倒産時の総負債の規模よりも大きく、債務超過額はおおむね同水準である。山梨の場合、山梨県当局の当初の意向では清算消滅させる方向にあり実際そうなりかかったが、K会もそれとほとんど同様の経営実態にあった。
  また、粉飾の内容、経過を調べたところ、驚いたことにK会のつくっていた決算書の数値の多くは根拠のない作文であり、決算書のもととなる会計帳簿も未整備であることが明らかとなった。われわれが決算書の数値のもととなっている元帳を見せてほしいというと、当時の経理部長は「ありません」と言うのである。このため粉飾に加担した一部役員や経理部長も含めてだれも経営の実態がわからなくなっており、作文である粉飾した決算書を「かざり」にして、長期にわたり一部役員による専制的経営が行われてきたということであった。このため調査は困難を極め、資産や負債の各項目につきその存在の実地確認や契約書、請求書等の根拠証憑を1件づつあたりそれを集約することで実態としての決算書を作成せざるを得なくなったのである。

(2) 経営再建の歩み

 調査報告書を受けて、K会において、深刻な経営状態の共通認識化とそれまでの一部経営指導部の無責任な運営に対する抜本的批判が進められた。それらはとりあえず役員や病院等事業所管理部、幹部医師、評議員等において行われた。大きな誤りを犯した役員は退任し、理事会、院長をはじめとした指導部は交代した。その上で、過大な病院建設投資、地域要求に根付かない医療活動方針、外部に依存した医師体制、非民主的な管理運営手法と経営実態の非開示、粉飾決算等これまでの問題点を正面から受け止め、全日本民医連からの指導も受けて、抜本的な改革を進めることにした。これらはK会において「民医連的経営再建」と呼ばれた。
 当時のことで今でも覚えているのは、K市の海岸近くの民宿で行った経営再建のための合宿での議論である。当時のO病院院長は医大助教授出身の外部招聘医師が担っており、詳細は忘れたがそこでの発言内容が民医連のことを知らずかなり緩いものだったため、参加した全日本民医連役員より厳しい批判を受けた。それを契機に議論が怒鳴りあいになってしまい、収拾がつかず団結に程遠い状態になってしまった。「いったいこれからどうなるのだろう」と絶望的な思いがしたものである。
 とりあえず、当面する財務上の焦眉の課題は、資金ショートを回避し倒産を防ぐことであった。このため、140億円強にも達する金融機関(銀行、リース会社、抵当証券会社)からの借入金のリスケジュール(返済繰り延べ)を成功させる必要があった。当時(92/3月期)の状況は当期損失14億円で、減価償却費の倍以上の赤字であり、借入金返済資金が全くなかったからである。交渉は難航し、金融機関側からの破産申し立てや役員派遣の可能性も憂慮されたが、K市の救急車搬送件数の2割以上を受け入れてきたK会の医療の公益性、社会的必要性を認めさせ、当面4年間の利息も含む返済の猶予を得ることができた。この4年間で経営を赤字から黒字に転換して返済原資を生み出すこと、そのために本格的な中長期の経営再建計画とそれを可能にする医療構想を確立することが課題となった。
 リスケジュール成立後、経営再建計画とそれの基となる医療構想の検討が始まった。山梨勤医協副専務の支援も受けて、経営再建計画は1992~2014年までの23か年計画として確定された。山梨の再建計画は15年であるから、それよりも経営再建まで8年も長い計画である。これは、K会の場合医療そのものが赤字であり(山梨は医療自体は黒字であった)その黒字化のために一定期間を要すること、また、債務の多くは金融機関借入であり(山梨は多くが協力債)利息負担しながらの再建計画であること、といった点からである。
 また、本来のあり方とは逆転しているが、経営再建計画を支える医療構想も具体化された。O病院の640床をはじめK会4病院の1300床の許可病床を早期にフル稼働させること、救急医療に今まで以上に注力するとともにその他3病院での慢性期病床を地域の要求や医療情勢に合わせて構造転換すること、友の会を協力債受け皿組織から地域住民との連帯組織に転換していくこと、自前での医師確保養成に注力すること、看護学院の定員2倍化を成功させ看護師体制を充実させること、といった構想が検討され、各事業所の管理部体制の確立が図られた。これらについては、全日本、福岡民医連からも様々な支援が行われた。
 その結果、1992,93年度は赤字が続き経営危機がより深化したものの94年度より黒字化し、90年代後半期より徐々に経営再建計画に沿った10億円規模の利益確保が達成されるようになった。また、法人の民主的運営、事業所単位の全職員参加の経営も徐々に軌道に乗るようになってきた。
  経営再建当初の頃は、経営危機といっても多くの職員にはなかなか理解が得られなかった。山梨と違い法的な倒産を引き起こしたわけではなかったこと、若い職員が多くO病院開院直後の手形不渡り事件を知らない職員も数多かったこと、長年民主的運営とは無縁であり、経営は一部経営幹部が担うものだという体質が染み付いていたこと、といったことがその背景にある。
 ある時昼休みにO病院の食堂に職員を集めて、事務長の依頼で私が講師を務めて経営の学習会を行ったことがあった。私の話が硬すぎたこともあって最初の10分で集まった職員の多くが居眠りをはじめ、閉口したことがあった。忙しい昼休みに学習会を開くなど間違いだったと今では思うが、「なんでこんな話を聞かなければならないのかわからない」というのが当時の職員の率直な感想だったと思う。
 一方その数年後に同じO病院の各病棟師長の会議に参加した。そのころO病院では各病棟別(部門別)損益管理が実践されていて、病棟三者会議(担当医長、師長、担当事務)を中心とした各病棟での予算管理が始まっていた。そこでの議論は事務も顔負けのもので、これには私も驚いた。三者会議での予算等必要な議論、病院管理部からの適切な提起、そして何より経営再建を軌道に乗せている自信が師長たちの変化に表れていた。
 2000年代に入ると、300床のK総合病院の建て替えが検討課題となった。医療情勢の激変のもとで医療経営構造の転換を図ること、K総合病院の老朽化への対応が必要なことがその理由である。経営再建計画には建て替え計画は織り込まれておらず、リスケ中なので金融機関からの新たな借入も難しいため、メインバンク等との粘り強い交渉によりリスケジュールの見直しを認めさせた。借入返済分の一部を新病院建設資金に充てることとし、2003年に名称変更の上新築移転することができた。
 その後しばらくして激震が走った。メインバンクでありリスケジュールの主要交渉先であるR銀行が金融ビッグバンの影響で倒産したのである。戦後長らく政府主導で「護送船団方式」での経営をしてきた金融機関もバブル崩壊後の不良債権問題に耐えられなくなり、R銀行は国の救済により事実上の国営銀行となった。このためこれまでのリスケジュールでは経営再建が認められなくなる可能性が生まれ、場合によってはK会に対する債権の外銀等への売却等も考えられる事態となったのである。 
 K会としては、この際リスケジュールを長期に続けるような不正常な状態を脱し、一挙に正常な法人に復帰することを目指した。R側からは正常化の条件として金融庁のマニュアルに基づく5年以内での債務超過解消計画の策定が求められた。K会は、この間定着させてきた年間10億円超利益確保体質を基礎に、繰り延べられてきた約30億円の未払利息の支払免除、法的再生に準じた処理としての資産の再評価益約14億円を組み合わせ、5年後での債務超過解消計画を策定し、R側からの了解を得ることができた。これにより、2004年4月より正常法人となり基本的に経営再建が終了することとなったのである。(その後、他の金融機関からの借入でRグループからの借入は全額返済となった。また、5年後の2008年度末で計画通り債務超過状態は解消された。)

(3)  経営再建の教訓

 1年間の事業収益以上の債務超過額、2倍以上の達する負債額という状態は、通常の企業であればとっくの昔に倒産していておかしくない。K会が山梨勤医協と同様に経営再建できたのはいったいなぜだろうか。
  それは、一言でいえば、非営利・協同組織であることに徹したこと、非営利・協同組織のあるべき姿を目指したこと、であるといえる。K会ではそれを「民医連的経営再建」と呼び、それを全職員の共通指針として取り組んだ。
 このことは、単に倒産状態における経営再建のノウハウといったことにとどまらず、広く非営利・協同組織における経営管理のあり方として教訓化すべきことといえる。                                           

① 経営目標における非営利・協同

  営利企業であれば、経営再建のために営利を最大限追及すること、すなわち、収益が最大化するような事業に特化し、顧客からとれるものはとり、一方で職員はリストラし、その給料はできるだけ引き下げるのが普通である。
 これに対しK会は、開設以降水害支援、炭鉱やカネミ油症等での健康被害問題での住民の健康を守るたたかいを支援し、経営の再建が始まってからも地域から求められる救急医療の充実を図り、行先の無い患者を受け入れる慢性期病床を整備し、差額ベッド代は一切取らないという方針を取ってきた。このことはK市民のK会への強い信頼につながり、一方で医師、看護師等職員の誇りにもなった。さらに近隣開業医、行政との信頼関係も蓄積されてきた。要するにK会の経営再建は、社会的になくてはならない存在として認知され発展してきたことの結果である。このため、友の会員を対象に募集した協力債は実質倒産状態が明らかになって以降も減少しなかった。また、金融機関側においても「つぶした場合の社会的責任を考えるとつぶそうにもつぶせない」状況にあったと思われ、さらに再建途上においても再建に協力せざるを得なかったといえる。
 非営利・協同組織において、経営が厳しいからと言って安易に営利追求に目標を変えるのはむしろ自殺行為である。経営が厳しいからこそ、経営目標における非営利・協同を明示し、患者、地域住民からの信頼を高め、職員を結集することが決定的に重要である。

②  経営組織の運営における非営利・協同

 K会は一部役員による冒険的投資、無責任な経営判断、経営実態の隠蔽が経営危機を招いた。このような事件は、営利企業におけるオーナー経営者によりよく起こされるが、非営利・協同組織においては通常考えられない事態である。
 非営利・協同組織は営利企業のようなオーナーは存在せず、多くの組合員、職員、地域住民等により所有され、運営される。すなわち「協同」である。問題が発生するのは、非営利・協同組織に「動脈硬化」が生じ、本来のあるべき運営が行われなくなったからである。経営は一部役員任せで、他の役職員は無関心という状態は非営利・協同組織では本来ありえない。
 K会では「民医連的再建」の歩みを進めて以降、職員、協同組織に経営の実態を率直に伝え、経営再建に立ち上がるように訴え、「全職員参加の経営」を追求してきた。非営利・協同組織において「打ち出の小槌」のような利益獲得手段はなく、職員のがんばりのみが経営改善の力となる。毎年の予算実践を地道に全職員の協力で進めていく努力の積み重ねが経営再建の原動力となったのは明らかである。

③ 経営計画における非営利・協同

 K会では、経営再建のために23か年の中長期経営計画を策定した。これは単なる金融機関向けのリスケ計画ではなく、その裏付けとなる医療構想、施設計画、職員確保養成計画等を持ち、K会を支えるすべての人々の共通の拠り所として存在し、経営再建中での毎年度の医療活動、予算執行の基礎としての役割を果たした。経営再建が最優先のため計画策定の順序は逆となったが、医療構想等と強く結びついた経営計画の策定は非営利・協同組織には絶対必要である。
 非営利・協同組織において活動計画、事業計画は必要だが経営計画はいらないのでは?といった誤解が一部にあるが、それは誤りである。非営利・協同組織だからこそ、利益追求第一主義に走ることなく医療構想等を着実に進めていくための経営計画を策定していくことが求められる。

④ 非営利・協同組織でのリーダーシップ

  K会問題の発生原因の一つに、一部役員による非民主的、恣意的運営があった。誤ったトップダウン型のリーダーシップが、極端な形でその弊害をあらわしたものであった。
 そもそも、K会のような非営利・協同組織にはトップダウン型のリーダーシップはそぐわず、現場で働く職員の基礎にしたボトムアップ型のリーダーシップがふさわしい。法人そのものの所有や運営上の民主性、簡単に言えば一部オーナーによる経営ではないことが非営利・協同組織の本質的特徴だからである。
  一方「非営利・協同組織においてリーダーなどは不要」との意見も正しくない。実際、千名を超える職員数で百名以上の医師を要する組織において、理事会、事業所管理部を中心にしたリーダーシップとそれを支える全日本、福岡民医連からの物心両面での支援が無ければ、困難な経営再建を達成することは不可能であった。非営利・協同組織におけるリーダーシップは、働く職員や友の会の人々を経営への無関心から脱却させ経営再建に向けて結集すること、そのために非営利・協同組織の存在価値や将来展望を常に提起し、職員等の成長を促すリーダーシップである。

⑤ 人事政策における非営利・協同

 K会の経営再建が成功した要因の一つに、医師、看護師等の職員の確保と地域に根差した医療に対する共感の形成があった。そうした医療専門職を確保することなしに、1300床の病床をフル稼働させることはできなかったからである。また、労働条件についても再建当初は賞与不支給等を実施せざるを得なかったが、その後はリストラを行うこともなく徐々に世間並みの水準に回復させていった。労働組合の分裂問題も解決された。
 非営利・協同組織においては、多額の資金が外部から供給されることはなく、有能な人材の確保とその活動に主体的に参画する意志を持った職員の養成が非常に重要である。職員の確保を経営の柱の一つと位置付け、大事にし、その成長を促していくことは非営利・協同組織の発展には不可欠である。  

⑥ 財務管理における非営利・協同

 K会での経営再建計画の執行や職員の経営再建への参画といった取り組みは、掛け声だけで実行されたわけではない。200億円にも達する収益規模と1000名以上にもなる職員によるの経営参加を進めるためには、それに必要な仕組みが必要である。
 K会は、形骸化していた予算管理制度をあらため、経営再建計画に基いて毎年度の予算策定を行い、月次での決算総括を行い、100%以上の予算執行を長年にわたって遂行してきた。このため、病院、診療所等ごとの事業所別の予算管理、90年代後半期からは各病棟、外来等の部門別の予算管理を行った。この予算は策定段階から各事業所管理者を中心に部門役職者、担当医師、師長を含めて検討され、その執行も現場段階から進めていく努力を行った。すなわち、現場の医師、看護師等も含めた全職員に経営が見え、理解でき、参画しうる取り組みを進めてきた。
 非営利・協同組織において、全職員の経営参加を進めるためには、それにふさわしいシステムが必要である。民医連において、それらは「事業所別独立会計」「部門別損益管理」といわれるが、そうした仕組みを創意工夫し、実践していくことが必要であった。
 また、粉飾決算を行い、一部役員による不適正な入出金があったK会の経験を反省し、定められた会計基準に基づく適正な決算書の開示、内部監査等による財務の相互チェックシステムも確立させた。これらもK会において重要であった。